高野山の新年は雪國の世界 笑っていいとも 

年明けは5年ぶりの高野山にいた。コロナで人の少ない雪道を奥の院へ向かって歩くと、前回同様に新明和工業の慰霊碑「アポロの塔」、「しろあり やすらかにねむれ」と刻まれた、しろあり供養塔(社団法人日本しろあり対策協会)が出迎えてくれた。荘厳な雰囲気なのに、今回もまた笑ってしまった…。

しろあり供養塔

しろあり供養塔

戦国武将やさまざまな企業の慰霊碑は雪をかぶって名前が分からないものの、西行や親鸞聖人などいくつかの名前を確かめることができた。

静寂の中、冷気を胸いっぱいに吸い込むと、生きていることを実感できた。若いころに高野山に来ていれば、きっと今の自分は違っていたかもしれない。次は夏に来よう。

20251210追記

この日は積雪のため、無数ともいえる墓、供養塔、慰霊碑が雪をかぶって判別するのが難しかった。
写真撮影したのは、他に安芸浅野家墓所、備後福山水野家墓所、芭蕉句碑。

高野山

高野山

松尾芭蕉(1644-1694)は旅の先達ということで、友人と「奥の細道をたどる旅」を続けているのだが、所詮野次馬のレベル。高野山奥の院に句碑があるとは知らなかった。

芭蕉句碑

芭蕉句碑

「ばせを翁 父母のしきりにこひし雉子の声」の句がある。これは俳諧紀行「笈(おい)の小文」の中で詠んだものだという。

芭蕉は、貞享4(1687)年に江戸を出発し、郷里の伊賀上野、伊勢神宮、吉野を経て高野山に参詣した。その後、和歌の浦、奈良、明石までの旅を「笈の小文」としてまとめた。旅中の54句が納められており、うち2句が高野山についてのもの。

句にある父母と雉子の声の意味がよく分からなかったが、「焼野の雉子(きぎす)夜の鶴」ということわざがあった。「きぎす」は「雉子(きじ)」の古語。巣のある野を焼かれたキジがわが身を忘れて雛を助けようとし、霜が降りる寒い夜に鶴が翼で雛を覆い暖める、という様子から親が子を思う愛情の深さを表わしている。

「焼け野の雉子夜の鶴、子を思わぬ親は無し」

「笈の小文」で訪れた郷里の伊賀上野では、亡き父の三十三回忌法要を済ませた。父は芭蕉が13歳の時に、母は40歳の時に他界している。

「父母のしきりにこひし雉子の声」の句は
高野の奥にたたずんで、キジの鳴声を聞けば、父母の慈愛が懐かしく、父母を恋しいという思いが募る。

「枇杷園随筆」所載の高野登山端書に芭蕉は次のように記している。
引用 https://gururinkansai.com/basyokuhi.html

高野のおくにのぼれば、霊場さかんにして、法の燈きゆる時なく、坊舎地をしめ、仏閣甍をならべ、一印頓成の春の花は、寂寞の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の啼にも腸を破るばかりにて、御廟を心しづかにをがみ、骨堂のあたりに彳(たたずみ)て、倩(つらつら)おもふやうあり。
此処はおほくの人のかたみの集れる所にして、わが先祖の鬢髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、此内にこそおもひこめつれと、袂もせきあへず、そゞろにこぼるゝ涙をとゞめて、父母のしきりに恋し雉の声

高野山は2016年1月に初めて訪れた。その後、「日本の沿岸を歩く」などで日本各地を探訪して得た知識が(少しだが)増えた分、墓や供養塔を見るのが楽しくなる。次の訪問が楽しみである。

墓・供養塔・慰霊碑一覧
https://okunoin.weblog.to/list.html