地と空&今と明日

2011年6月 「環境ジャーナル」サポーター 迫義人(広島市在住)

この度の東北地域における天災、人災により、突然にして不幸な事態に陥られた皆さまに衷心よりお見舞い申し上げます。

激励の寄せ書き

桜散る石巻専修大学の校庭、上空には陸上自衛隊のヘリコプターが頻繁に往来する昼の時間。朝には広大な校庭に所狭しと並んでいた災害復旧支援ボランティアの車両も、今は閑散として現場に散会している、2011(平成23)年5月2日、そんな光景の中にいた私。そして今、震災から丸2カ月半が過ぎ、私は広島で被災地のニュースを日々聞いている。

この度は、不幸にして未曽有の震災に見舞われた東北の皆さまに、心からの哀悼の意を表し、ささやかながら支援活動をさせていただきました。そしてこの活動を支えていただいた皆さまの厚意ある支援に、心から感謝し、2回の活動を終えたこの機会に、私信形式で感想や提案を織り込んだ報告書をまとめました。長文で読みにくい部分もありますが、どうかご容赦ください。

 

 

目次

<ボランティア活動の報告>

 

1 今しかできない…復旧支援活動への出発

 

災害発生当日3月11日、午後4時過ぎに自宅に帰ってきた私に妻がテレビの画面を指し示した。映画を見ているのではないのかという錯覚。すべてを飲みつくす津波の猛威を示す場面に、これはすごいことになったな、とただ呆然と画面を見ていた。

おそらくこの映像を見た人も打ちのめされた感じになっただろう。同時に、私はこの未曽有の災害の復旧に何とかして協力することはないのか、と思い始めた。具体的に何ができるのか、何時ごろ、どれだけの期間行くことができるのかを考えていた。ところが数日後に「温水シャワーサービスに行こう」と、友達のW氏が声をかけてきた。タイミングのよい話で、即座にOKした。

行くからにはすべて自己完結型で、必要な用品の準備、活動費用はすべて自己負担としたい。しかし、実行するためにいろいろと費用を試算すると、超貧乏状態の私にも、それに近いW氏も(失礼)限界をはるかに超えるということが明確になってきた。その上、日常的な用品が全国的にいきなり欠品状態となり、簡単に手に入らないものが出てきた。

2人ともやりたいけれど、これでは計画遂行は無理だ、と頓挫しかけた。そこで、私の恥かきで済めば「駄目もと」でいいじゃないか、と知人に必要な用品の提供と資金協力の依頼をさせてもらった。あつかましさを承知しつつ、志にかなう人たち40人ほどにメールさせていただいた。思いがけなく、依頼したほとんどの皆さんからクイックレスポンスで支援金、支援物品の申し入れがあった。多くの厚意が集まり、計画実行へのメドがついた。メールにすぐに応じていただいた人たちの協力の輪が広がり大いに感動した。

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2 第1回の訪問先は宮城県亘理町  4月8日

 

W氏はシャワーサービスするための運搬機器、機器の試作、試運転、運搬するキャンピングカーの改造、燃料の確保などの準備に着手した。最も重要なシャワー室の試作・変更は数度にわたり、完成までに40日近くを費やした。

一方で、W氏がシャワーサービスに出掛ける期間と、私の支援活動のためのスケジュールが合わなくなってきた。このため私はまず単独先行の形で出掛けることにした。ではどこを目的地にするか。県外ボランティアを受け入れていた地域を優先的にネットで検索し、最終的に仙台市の南にある亘理郡亘理町(わたりぐん・わたりちょう)に行くことに決めた。

1回目は4月8日午前9時半、わが家を出発、高速道を走り、優れない天気の中、山陽道、名神、中央道を経由して、夕刻には富士山の広大な裾野を見つつ諏訪湖を過ぎた。すっかり日も暮れた岡谷付近で、カーナビをOFFにしていたため、誤って高速から一般道へ下りてしまい、仕方なくそのまま一般道を走行することになった。時刻は早くも午後8時近くになっていた。

急で長い登坂車線、屈曲した道が連続し、初めての道をトラックに追い立てられるように走って長野に到着。暗闇から広い明かりのゾーンに入ったようでホッとする。同時に、上越まで本当にこの道でいいのか、と疑心暗鬼で走り続けた。積雪が多く残る峠道をカーナビの案内に従ってひたすら走ると、日付を回った土曜日の午前0時半に上越市に到着した。ルートが間違っていなかったことをカーナビに感謝する。そこから高速に入ったが、疲れ果てたために最初のサービスエリアで車中泊した。

翌朝目覚めると、雨が降っていた。広い田園風景や平野を貫いて新潟を抜け、さらに新潟中央から福島方向へ。磐梯山ろくの広大な裾野道を、行きかう車の水しぶきを強烈に浴びつつ走り続けた。白井ICに降りる前に福島県内で給油をする。前日にはマグニチュード7に近い地震があり、宮城県内で広域停電があったとラジオニュースで聞いていたので早めに給油することにしたのだ。これは正解だった。宮城県に入ったとたんにガソリンスタンドに長蛇の列ができていたからだ。


目的地の亘理町には予想より早く到着したが、肝心のボランティアセンターを何カ所も探し回ったので、意外に時間がかかった。場所を確認しようと立ち寄った町役場は地震で庁舎が使えなくなっており、建物の表にプレハブがずらりと並んでいた。まさに被災地という感じだった。

小雨が時折ぱらつく中、たどり着いた災害ボランティアセンター付近では、水道が前日の地震で再び断水。自衛隊の給水車に水を求める行列ができていた。

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3 亘理町の悲壮感と虚無感

 

亘理町災害ボランティアセンターで受付を済ませ、指定されたセンターすぐ近くの駐車場に車を移動させた。既に活動に入っていたボランティアたちの車両がほぼ駐車場一杯に詰まっていた。通常は公園として使われていた場所だが、砂利を敷き詰めてボランティア活動に来る人の仮設駐車場にしていた。

亘理町災害ボランティアセンターでの受付状況

亘理町は仙台南の海岸沿いの広い平野部にあり、イチゴとワインの名産地といわれる。他の地域同様に報道や被災地ホームページで見る通りの凄惨な被害だった。しかし、この地での作業期間、海岸すぐ近くの凄まじい現場へ作業に赴く機会はなかった。私が作業に入って3日目の月曜日、町長がボランティアの皆さんの前で言われたのは、約2,900世帯が被災したということだった。

平野部の田畑73%が海水冠水、地盤沈下で海水が引かず、漂着した車はそのまま横たわっていた。大きく破損して動かない車のほか、見た目ではなんともなさそうな車もある。比較的冠水水位が低かったところに多かったようだ。車など放置されているものは、どれも重機でしか動かせないものだ。

 

ボランティアなどための駐車場

さらにコンバインやらトラクターなどの大型の農機具、防風林の松、さまざまな家具などがあった。畑には海岸側からの浮遊漂着物が大量にあり、道の両側には家屋から搬出した泥も捨てられ、帯のように続いていた。構造物や庭木などあらゆる物に海水が冠水した跡が残り、漂着ごみがへばりついていた。

私が最初の作業に入ったのは到着後、昼食を取って間もなく。既に活動していた北海道美瑛町から来たMさん、Kさん、仙台市内から休みを利用して来ていた女性KSさん、大阪から会社を休んで来た若い男性会社員Wさん、それに私を加えた5人編成で午後の被災現地復旧支援に出掛けた。

初めて訪れた場所では、Mさんが「亘理の平野部を走る高速道の海岸側被害と、内側の被害は天国と地獄ほど違う」と言う通り、間に線を引いたように被害の度合いが違う。家屋の流失、損壊は分かっていても、行方不明者や死亡者の実数は分かっていないようだった。状況からすれば、その実数確認や把握は少し先になるだろう。

車中でKSさんが携帯電話のカメラで撮っていた写真を見せてくれた。作業地に向かう途中、道路に並走している常磐線の駅は駅舎が流され、駅舎への階段のみが残っていた。まだ目的地に着かない間に、これだけ大きな被害を見せつけられると、言葉を口にすることはなかった。

最初の現場では、イチゴ農家の納屋部分の汚泥のかき出し作業をした。先発できたボランティアの人たちと共に住人の2世代夫婦、そして幼い子どもたちも懸命に作業中。私たちは応援というので、先発の人たちと一緒に作業するのかと思っていたら、先発隊は「交代しよう」と言って帰ろうとした。これじゃあ話が違う。どうやらセンターの受付か、指示する人の間違いのようだ。のっけから指示が徹底していない現場の混乱ぶりに直面してしまった。

だが、現場でけんかしても始まらない。被災者がいる現場で内輪の不手際を言っても何にもならない。先発隊は帰り、後に到着した私たちと被災家族とだけで作業を続けた。リーダーの指示で汚泥の整理をすることになり、皆でひたすら泥のかき出しと搬出をした。女性のKSさんが泥んこになるのはかわいそうだと思ったが、現場では男も女もない。その家の家族と一緒に作業を続け、小さな子どもも、よたよたしながら手伝ってくれた。

亘理町災害ボランティアセンター

道路には廃物をいっぱい積んだ自衛隊や民間のダンプが入り交じり、道幅が狭くなっている部分を行き交う。キャリアカーで運ばれていくペシャンコのパトカーを見て、いっぺんに気分も言葉も詰まる。あたり一面海水に冠水した畑、破壊され冠水した車両、根こそぎ流された大木…。津波になぎ倒された防風林は見る影もなく、強烈な風でほこりが舞い上がる中、時折不意に地震に襲われた。その度に驚きながらも、片付けは少しずつ進んでいった。

何日か従事した作業の中で、特に複雑な気持ちになった場面がある。それは古い市営住宅での家具搬出。その住宅に住んでいた人の人生の喪失を見ることになった。すべて水浸しになった職人らしき兄弟の住まいには、女性の美しい和服が丁寧に保管してあったが「海水に漬かって元通りにならないから、全部捨ててしまう」という。私たちは本当なのかと耳を疑い、捨てるのをためらった。

畳も海水でダメになり、搬出の時には座板が抜けて床下に落ちた。普通なら取っておくだろう賞状、証書、アルバム、壊れた仏壇も、すべて捨ててしまうという。「ゼロからスタートしたい」という言葉の裏に、一言では表現できない悲壮感、虚無感、無力感を覚える。その兄弟は私たちの作業の様子を静かに見ていたが、もちろん元気はない。なんと言ってよいのか分からない。

次の日も民家の庭先と家屋や周辺の泥出し。庭先は泥一面で、家の周りは泥を手ですくう方がきれいに取れるような場合もある。庭周りの田畑もすっかり冠水し、地盤沈下のために海水は引いていない。

被災地一帯には冠水して漂着した車があちこちに散在する。こうした光景は決して珍しくはない。作業に訪れる家族の中には当然、死者や行方不明者が出たところもある。多くの家を訪ね、泥をかき出し、再び住む事ができるようになった。そうした家も瓦屋根のほとんどが破損していたので、地震もすごかったのだろう。

私たちボランティアは、現地に入る前に心構えとして「ボランティアをさせてもらうという気持ちで」「こちらから相手の被害についてあれこれは決して言わないように」「被災者という言葉は絶対に使わない」「作業中のことで判断に困るときは必ず本部に相談する」「リーダーは必ず仕事の結果を依頼者に報告して帰る」などという指示を受けていた。

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4 共に作業に従事した人たち

 

4月9日、亘理町に到着した日に出会ったのがMさんとKさん。2人は北海道の美瑛町から一緒に来た。観光業としてサイクリングショップを営んでいるが、震災で外国人客の予約がなくなり開店休業に。それならボランティアで何かできるのではと、ここに来たという。土木現場作業員のそろいの服装で、一見専門職かと思った2人は、とにかくよく動く。ワゴンで自炊、寝泊まりするタフなこの2人と4日間も一緒した。

KSさんも最初の日に会った気さくな若い女性。後日もう一度共に作業地に行った。仙台のペットショップで働き、休みのたびにこちらに来ていると言う。

「地元の人は甘えているのではないか。遠くからいろんな人が来てくれるのに、こちらの人ももっと来て応援しないといけない」と言っていたのが印象的だった。

KSさんの友達のMさんは、金髪に染めた人で外国人に間違えた。彼女の車に乗せてもらって現場に出掛けた。この2人は心意気がすがすがしく、本当に心地よい印象だった。今も休みの日には参加しているだろう。

ボランティア受付日計表

車両持ち込みで来ていたKAさんには、3日間連続でお世話になった。モッコを車に積んで毎日運んでもらったのだが、彼のお母さんが作った、おいしいおむすびを何度もご馳走になった。それは大変うれしい和みの時間となった。隣町に住んでいるKAさんは「ボランティアが入れる状態でもないので、当面はこちらに来ている」という、ふるさと思いの人だった。

Yさんは仙台で自分の設計事務所が震災のために暇になったので、時間のあるときはボランティアに来ているとのこと。私が帰る前日までも都合3日間一緒させていただいた。とても誠実な人で、広島に来たら案内をすることを約束した。

 

KJさんは隣の多賀城からこちらに派遣された。こちらとのやり方がいろいろと違うことを言っていた。鳥取砂丘近くに住んでいる自由人で、とっても楽しくユニーク。アジアやヨーロッパなど、好きな所を訪れているようで、北海道から来たKさんと話がよく合い、カナダ、ニュージーランド、ヒマラヤなどの話で盛り上がっていた。彼とも3日間の付き合い。

Hさんは今年大学に入学予定だったが、震災で入学時期が延期され、4月末日までに時間があるため、ボランティアに参加したという。この町の被災地近くに住む女子学生で、友だち3人も通学中に被害に遭い亡くなったとか…。1日だけの共同作業だったが、彼女は懸命に被災者の片付けに従事し、住民に大変喜んでもらった。

Tさんは私の車の隣に駐車していた。交代で湯を沸かしたり、簡単な炊事を共にしたりした。鹿児島から軽自動車いっぱいに荷物を積んできており「1カ月は活動して帰るんだ」と、すごい意気込み。私が2回目の東北行から帰る前日に彼に電話すると、亘理より少し移動した地点で活動中だった。さすがに疲れて間もなく鹿児島に帰ると言っていた。

ボランティア向けの情報

告知板

ボランティアの心得

KNさんは生き生きした元気な人で、3日目に私の隣に駐車した。岡山県津山市から会社の休みをもらって来た、という。Tさんと組んで勢いよく仕事をやるものだから「腰が痛い」と訴えていた。一緒に自衛隊さんの風呂のお世話になって疲れを取ったり、車の後ろで湯を沸かして自炊のまね事をしたりした。彼は会社があまり長く休めないので、一足先に帰った。

現地で一緒に作業をした人たちは、男女とも若い人が大変多かった。仙台の大学に通う大学生たちも、始業が1カ月ずれたこともあり大勢来ていた。

相模原から支援物資を積んで来た造園屋さんは「今は少し仕事が暇な時期なので」と、あちこちを巡回してボランティア活動をしていた。

さまざまな形で、善意の活動ができる人が駐車場にいっぱいいたのだ。今後も復興への時期に応じた活動が続けばいい、と念じる。被災者のために働く善意の人たちの姿に、その可能性を希望的に感じられる場面が多くあった。

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5 1週間滞在後、帰途に就く  4月15日

 

4月15日の早朝6時過ぎ、帰る前にセンターや町の写真撮影に出掛ける。当然今回の被災地の様子は、被災地への心情的な配慮から一切撮影していない。

被災地の写真は各地区の災害ボランティアが提供するパソコンのホームページか、報道に任せておけばいい。現地の災害ボランティアセンターの方からも当然の事ながら「撮影しないように」に言われていた。心情的に撮影したくないし、常識の問題でもあると思う。多くの人の良識もそうだろう。

亘理城ならぬ亘理駅 そうした気持ちがあったが、亘理駅が個性的なお城風の建物であると聞いていたので、ここだけは写真に撮っておきたかった。

亘理駅

撮影を終え、亘理町災害ボランティアセンターを出発したのは午前9時近く。往路を戻るのではなく、一般国道113号線を走った。蔵王の雪峰を右手に見て、風光明媚な七ヶ宿湖を通り過ぎる。好天の山形米沢盆地は交通量が少なく、まだ雪が残っている峠道を南陽市へ。米沢盆地から遠景には磐梯朝日の雪峰の眺めが心地よい。広島にはない風景である。小国を過ぎると新潟県胎内市。屋根の素材が瓦に変わり、のどかで平らな田園風景が広がる。広島によく見られるような家の造りだ。ひたすら海岸沿いの道を目指し、松林の向こうに広がる日本海を見てうれしくなる。

新八田市の海岸公園で日本海の荒波を眺めて少し休み、国道8号線に進む。長岡経由で糸魚川、親不知のスリルある洞門海岸を通過。富山に入ると夕刻も過ぎて暗くなったので、国道沿いの店でうどんを食べる。

夜の道は何も様子が分からない。ひたすら走り続けて気づくと金沢を過ぎていた。土曜日の日付に変わる直前に小松に到着。少し時間を待って小松市役所付近で休み、高速道へ。来た時と同様、最初のサービスエリアで車中泊する。翌日は好天、午前5時前から走行開始、広島の河内インターまで一気に走り昼食を取る。午後4時近くにわが家に無事帰着。総走行距離は2,515Km。本当にホッとする。

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6 東北行2回目は女川を目指して  4月28日

 

帰宅後W氏と打ち合わせ、温水シャワーサービス設備の出来具合と状況を確認した。さらに彼の出発日や現地での合流の段取りを再確認。24日夜に出発し、26日から現地でサービスを開始しようということになった。

打ち合わせ通り、W氏は26日に女川第一小学校に到着した、とメールがあった。私はそれに合流するため、28日に広島の自宅を発ち一路女川を目指した。前回と異なり今回は、高速道は使わずすべて一般道を利用することにしたので、確実に前回より走行時間がかかりそうだ。

4月21日付中国新聞

まず広島県を抜けるのに実に3時間もかかったので、これには意気消沈。姫路から福井県の小浜をカーナビ頼りに目指したが、亀岡近辺を走っていると、どうも遠回りをしているようだと気付く。小浜市内に通じる峠道の長い登坂路は、霧や小雨がありかなり心細い山道。日中ならきっと素晴らしい田園風景だろう。なんとか小浜について給油する。ガソリンスタンドでは「金沢まで3時間はみたほうがよい」と教えられた。

途中敦賀を過ぎた辺りで遅い食事をし、福井、加賀、小松と経由。金沢の駐車場で車中泊するころには、日付は既に29日に変わっていた。

夜明けの午前5時前に出発し、まだ寝静まった金沢の街を後にする。波が激しく打ち寄せる親不知洞門を心地よく通り、糸魚川からアルプス側を見ると白雪を抱いた峰々が続いている。その光景はすべてが内陸から面となって続いているようだ。糸魚川付近の道の駅で朝食を簡単に取り、カーラジオで国会討論会を聞きながら海岸部の富山を過ぎ、広大な新潟平野を走る。天候は思わしくない。

前回の帰り道を逆走するコース。天候は安定せず、雨が間断なく降り続く。新潟から山形を通り、宮城への県境の峠道を少し休憩しながら通り抜け、やっとの事で国道113号線から国道6号線に入る。

ようやく宮城県の白石に着いたころ、天候は回復して心地よい走行ができた。走り続けて夕刻近く仙台市に。だが凄まじい渋滞に巻き込まれてしまい、予想外の時間を費やす。何とか明るいうちに女川に入ろうと思ったけれども、絶望的となった。

こうして日本列島を車で走っていて、ふと感じたのは、仙台にしても、富山にしても、金沢にしても、町そのものに何か品があることだ。うまく表現できないが東京、名古屋、大阪のようなただ人間ばかりが居て建物が乱立、景観の中で人工物でないものは空だけ、というのではない。広島よりは住みやすい風情のある都市に感じる。まあ、住んでみないと分からないけれど。

時間は午後8時過ぎ、やっとのことで石巻らしいところに入った。当然覚悟はしていたが、この初めて訪れる地には、街としての明かりがまったくない。あたりはがれきばかりで、やっと見つけた明かりの場所は避難所となっている中学校だった。

そこからコンビニなどで何度か道を尋ねて目的地を目指すが、道路は月明かりすらもない闇が続く。照明がまったくない街中をヘッドライトの明かりを頼りに走る。石巻の破壊されつくした町の中を走る不気味さ。なんともいえない恐怖感を覚えた。「ここは日本なのだ」という感じが、突然どこかに吹っ飛んだ。意外なことに路線バスと出合って、ホットしてとてもうれしかった。教えられた辺りを訪ねると、やっとW氏の居る女川第一小学校に到着。なんとかW氏と落ち合うことができた。

学校校舎の出入り口の右手に、W氏が設営したシャワールームがあった。W氏の案内でその場にいたボランティアがその日最後の入浴を済ませた。私はW氏のキャンピングカーの中で簡単な食事をし、自分の車に戻って眠りに就いた。戸外は少し冷え込んでいたが、空の星座は何事もなかったように美しかった。

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7 破壊されつくした街で支援を探る

 

翌朝早く目覚めると、女川の街中に向かう。前回活動した亘理町との被害の様子が余りにも違う。通行した地区は家屋の集積度や海から至近距離ということで、津波の破壊力をストレートに受けたのだろう。石巻と同様に完全に破壊され、凄惨な光景だった。車1台がやっと走れるだけで、すれ違いが困難な応急復旧した道をパンクしないかと気遣いながら、ゆっくりと移動する。

視界に入ってくる全壊し無人状況の街中の様子は、膨大な映像や文章をもってしても、まず正確には表現はできないだろう。誰も言うだろう、「こんなひどい光景は初めてだ」と。私もまったくそうとしか言えない。緊急支援に来た各国の救助隊も、こんな酷い現場は経験したことがない、と驚いていたようだ。家屋が残っていても解体するしかないものばかり。観光大型バスがビルの屋上に鎮座し、乗用車が建物の屋上にひっくり返っていたり、壁や木にへばり付いていたりした。まさに驚愕の連続だ。

この光景はテレビで数多く流されているが、来て見ないと本当の凄さは分からない。同じように崩壊した入り江の漁村が三陸一帯に連なっている。映像を見て理解ができても、現地を訪れて感じるのと違う。恐怖感の圧倒的な迫力だ。被災者が受けた衝撃が余りにも大きいことを、恐怖とともに実感する。そんな場所で生活をゼロから立て直すには、未来はあまりにも見通しづらい。

道以外はがれきが各区画で被災時のままで、残った建物も再び使えるものはない。どこからどう手をつけるのか。このままの復興はまず無理だと思うが、取りあえず更地にするしかない。仙台東から三陸にかけての海岸のすべての町、小規模集落は女川と同様、テレビで繰り返し流れた映像そのそのものの光景。静寂とともに廃虚として目前にある。まさに呆然とするのみ。人々が一様に言う「言葉を失う、息をのむ、絶句する」とは、このことなのだ。

私たちに被害情報として届いていないところも、おそらくもっと数多くあるだろう。折も折り、海辺に近づくと大潮に近い時間のためか桟橋と海面の差はほとんどなし。離れた所から見ると、被災後に来たであろう作業台船などが、接岸しているのに桟橋から乗り上げて陸上部にいるように錯覚してしまう。

地盤沈下によって桟橋水面、海水面の水位差はないに等しい。風が強ければ海岸部一体はすぐに水浸しだ。石巻市の海岸部のように海になるのである。現実に冠水している箇所は多く、石巻から女川付近は満潮の度に冠水するので、海面に一番近い鉄道は海水で線路が見えなくなるところもある。並走する国道も冠水し、その中を走るのは一瞬ためらう。

緊急的に道路に砂利をまき、かさ上げして冠水を緩和しているところもあった。高台にある女川町を一望できる展望台は、地震で何カ所も地割れして段差がつき、展望地図台も傾いている。

そこで出会った人と話していると、災害復旧の派遣先の調査依頼で近隣を調べるために来たという。スマトラ沖地震での日本の支援に対する恩返しとして、インドネシアからジャンボ機1機分の人がボランティアとして来るらしい。大変うれしい話であり、実行されればとても良いニュースになると思ったが、後で確認したところ、それだけ多くの人が来ても、宿泊場所の確保が難しく、またどんな作業をするかをマッチングするのも難しい、ということで、規模を小さくして手始めに海岸部の農地復旧から取り掛かるという情報を得た。

現場でも、災害ボランティアセンターでも、国外から駆けつけた多くのボランティア組織やメンバーをよく見かける。数多くの国々からいろいろな支援があり、今も続いている。とてもうれしいことで、中でも桁違いに突出した支援を申し出た台湾には感謝の言葉が尽きない。なぜここまで台湾が災害支援してくれるのか。分からなければ、これを読まれている皆さん自身で勉強してもらいたい。

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8 喜ばれた温水シャワーサービス

 

女川第一小学校と仮設住宅

最初の温水シャワーサービスをした女川町女川第一小学校の校庭には仮設住宅が40世帯分くらいは既に完成し、入居を待つばかりの状態だ。校門の校名プレートや校舎入り口付近の路面などに亀裂が走っている。

翌日朝、先に書いたように街を見て帰ってくると、W氏の作ってくれた喫茶店のモーニングのような朝飯を食べながら、彼の話を聞いた。食事が終わると、シャワー設備を撤去して次のサービス地点に行く準備をする。

私は現地でするこの作業は初めてだったが、組み立ての試作を何度も繰り返して簡単に解体運搬ができるようにした。コンパネのシャワー室(5室)の出来栄えはさすがである。唯一の欠点は床部分が重いことだが、これとてドライバー1本で1人でも組み立て、解体が簡単にできるようにするためにはやむを得まい。もちろん何人かで作業すればもっとスムーズに、早く組み立てられることは言うまでもない。とにかく水さえ供給できればどこでも設置可能という、サバイバル発想が生かされたシャワー設備である。

地震で亀裂の入った校舎 この設備の特徴は、まず電気はなくても発電機で対応できるので、日没後の暗い時の照明もOKという点。水がエンジン式の高圧圧送ポンプ、高圧排水ホースを経由して、業務用ボイラーに入って暖められ、それから高圧パイプを経由して各室のシャワーに温水となって供給される。利用する人は、カーテンの入り口から入りフロアマットの上で脱衣。さらに奥のカーテンをめくってシャワー室へ入り、温水を浴びるという仕組み。しかし、機器が中規模対応型なので、湯量調節のハンドルを回すと水圧とボイラーの燃焼温度が変化してボイラーが止まってしまう。だからシャワー室で水の開閉はできない。

連続運転用の機器のため、そこが難しいところだ。湯が出しっ放しになるため、連続して入浴してもらうのが前提となる。阪神大震災時のような連続して利用してもらうことを想定していたので、女川の避難所では少人数しか利用しないときは、もったいないという場面もあったようだ。

シャワーサービスのテント

この小学校の次の現場は相手と連絡がうまく取れず、やむなく石巻の専修大学で連絡待ちとなった。昼に近くのファミレス風の店に入って食事すると、ボランティア活動に来ている人と思われる客がいっぱいだった。そうしていると、やっと連絡が入ったので食事を終えて次の行き先に向かう。Nさんのスマートフォンに付いているカーナビで案内してもらったが、同じような古い松を何度も見かけたので、道を間違えているのではと心配した。石巻市でも海岸に近いところらしく、強烈に破壊された海岸沿いの工場団地や住居区域がある。北上運河らしいと思われる水路では、石巻の専修大学ボート部と思われる練習風景が見られた。

やっと着いた簡易宿泊所は避難所になっている。一階の駐車場がちょうど整理された直後だったので、屋根付きの駐車場にシャワー設備を設けさせてもらった。避難所といっても、各部屋では水も電気も使えない。個室であるのが救いである。エンジンコンプレッサーはすぐ近くの受水槽の近くに、ボイラーはシャワー室の入り口に、発電機は受電室の中にそれぞれ配置し、運転テストをして温度などのバランス設定を終えた。サービスが可能になったのは太陽が沈みかけたころだった。

松島空港に近いのか、飛行機の発着音が時折聞こえる。付近は被災時の様子がほぼそのままの状態である。設備を設置した所から南に行くと、もっと凄まじく車両が破壊、放置されたところもある。海岸沿いの工場周辺には、大型トラックが荷物を積んだままキャビンがペシャンコになり、海底から引き揚げられたかのような凄まじい状態で並んでいる。

津波の一撃がいかに凄まじいか。被災場面が破壊されている状況を、どう理解していいものか。爆撃の後とは異なる破壊の連続で、原型をととどめていない。信じられない現実が目前にある。

道路の確保やがれきの片付けはあらかたされているようだが、一帯が復旧できるのか、またそこに人が住めるのかの区別ができていない。そのためか、片づけの進み具合は遅いし、どこから手をつけていいのか分からない状態なのではなかろうか。

当地での温水シャワーサービスに話を戻す。最初の日は入居者に通知が徹底していなかったのと、入居者が戻ってくる時間がまちまちだったため、少人数の利用者への対応が難しい。私たちがもうやめようかと思ったときに、利用希望者が現れることもあった。

シャワーの入り口

脱衣場

脱衣室からシャワー室へ

2日目はもう少し利用者が多い場所に移ろう、ということになり、Wさんと待ち合わせた場所である石巻専修大学に戻り、ボランティアの人に利用してもらうことになった。

水の供給が大丈夫かどうか下見に行くと、構内での設置は無理。そこで北上川の川土手に設営するつもりで調べていたところ、尋ねた近くに住む人が快く「家の水を使ってください」と応じてくれ、設営場所も案内してくれた。さらに「何かしておくことはないですか」と言ってもらえたので、とてもうれしく感謝。これで最後の設営地を決めることができた。

シャワー室内部

小学校に駐車したサービス用の車

ところがその夜になって「三陸の方に行ってもらいたい」という連絡が入った。前に連絡があった際、こちらはどうしても水が確保できなければ無理であることを伝えていたが、その後連絡がなかったのだ。

連絡の悪さはやむを得ないとしても、震災支援のボランティア活動の人たちから連絡が遅れたり、すれ違ったりするのには本当に振り回された。これが一般の企業活動なら、信用は台なしで、損害はあっても利益はなく、稼いだお金も無駄な動きですぐに吹っ飛ぶ。ボランティアの最大の欠点は採算意識が余りにも少なすぎること。もちろん、それがボランティア活動にある程度つきまとうとしても、相手に無駄を踏ませることならしないほうが良いと思う。ボランティアで動いた時、必要な最小限の連絡がうまく伝われば、さらに貢献できるのだから。

移動先の申し入れについては、私たちも大変困惑した。100キロ以上も離れているし、確認も取れていない。無駄足の公算が濃厚だ。結果としてやはり石巻専修大学の敷地外の設営場所に行くことにした。私たちのいる場所は風の吹きさらしに近いところで、サービスが終わるころの3日目には、ついにW氏も疲れと風邪でダウン状態だった。

翌日には石巻専修大に行くために私がどんどん今の設備を撤収し始めたので、W氏はつらそうだったが起きて動かざるを得なかった。彼いわく「わし一人ならダウンして寝とったよ」。私も帰るまでの日取りがないので、冷たいようだけれどもやむを得ない。移るなら今日しかないと思い、強引に移動するように昼前にそこを発った。

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9 石巻専修大学付近で温水シャワーサービス

 

3度目の温水サービスの設営場所は、先日約束した場所に設営することに。現地に着いたのは午後3時過ぎ。ここでも相変わらず風は強く、組み立ても苦労した。手間取ったのは、私たちの居場所を確保するレイアウト作り。テントシートの紐はあちこちくくり付け、出っ張っている庭木の枝を切る。体調不良のW氏にも作業をしてもらい、やっとのことでサービス開始可能までこぎ着けた。午後6時過ぎていた。

次のサービス先へ移動中

時間が予定よりずれたことと、ここを起点とするボランティアの皆さんにサービスのことを周知していなかったために、初日の利用は13人と少なかった。それでも、最初に入浴した目の愛くるしい若い女性はとても喜んで「明日も来ます」と生き生きとして帰って行った。大部分のボランティアは1週間前後ずっと風呂に入っていないと聞いたので、「明日もやっていますから、皆さんを誘ってください」と案内を頼んだ。

サービスをしている野外でも、休んでいる車中でも、時々来る地震に揺られる。眠ろうとするころ、夜の星空を見上げれば、それは広島と同じだが当地には余分な光芒がなく、真上に輝く北斗七星に天空の神秘さを鮮やかに味わう。多くの人たちも、ひそやかな天空にさまざまな思いを寄せているであろう。

当地2日目、私たちのサービスをもっと皆に分かりやすく伝えようと、広島から来たD女史にサービスを知らせる案内ポスターを作ってもらい、シートの上に貼り付けた。D女史は受付でボランティアをしていた女性。同郷のよしみということで親しくなった。サービスのポスターだけでなく、受付の仕事で得られる他の団体の動きや全体の様子など役立つ情報を提供してもらった。

W氏は2日目も終日不調で、車の中でヒーターをかけてひたすら寝ていた。大変気の毒であり、逃げられない場所に居るので何とか復調してほしいと願う。

夕刻ごろから、各地の作業から戻ってきたボランティアの人たちが目の前を通り過ぎながら、ポスターに気付く。「シャワーにはいれる!!」とか、「入れるのですか? 来てもいいのですか?」。うれしそうな声で尋ねてくるので、「皆で誘って入りに来て!」と答えると、間もなく連れ合って三々五々と訪ねてきた。

石巻専修大学付近でサービス

こうして私がお手伝いする最終日には、多くの皆さんが詰め掛けて、順番待ちが当分の間続いた。私はこんなに多くの利用者を迎えたのは初めてだったが、W氏には阪神大震災の支援の場で見ていた光景が再現されたようで、彼は忙しくなると大いに元気が出てきた。

入浴に訪れた多くの若いボランティアたちは、全国から来た多様な人たちで、話し相手をするのがとても楽しい。外国の英語教師のグループもその一例。若いカナダの女性教師は、他の男性教師と一緒に腐った魚を袋に入れたことやドブさらいをしたことを話し、アメリカ、フランスから来た若い教師は「日本大好き」と言っていた。作業服があまりにひどい悪臭で着られなくなり、仕方なく捨てたことも話してくれた。

若い人はピースボートのようなさまざまな非政府組織(NGO)のウエブサイトを見て、「自分も何かしたい」という気持ちに駆られた人がとても多かったようだ。10日前後から1カ月のボランティアに来た大学生、連休の間だけという若い男女の会社員、奥さんと来ている団塊世代の年配者、会社の派遣で順番に来ている人など、実にさまざま。もちろん現地の人で自分の仕事ができない間、ここに来ている人もいた。

ここのボランティア活動が終わって帰ったら、2年間は1人で海外に旅をするという若者は頼もしくあり、またうれしい。「就職前に世界を自分の目で見ることは大切ですね」と激励して別れた。悲惨な被災地であるが、ひと時の心地よい空間があった。W氏も私も、何よりも彼らに今日一日の作業の満足感を与えることができ、翌日のボランティア作業に頑張る気力を与えることができたと感じた。

夜間までサービス提供

D女史と彼女と同行の福山市の若い女性が差し入れを持ってきてくれ、思いがけない楽しい交歓となった。W氏の発案で茶わん蒸しなどを振る舞うことになり、材料仕入れやジャガイモの皮むきにあわただしく取り掛かる。寄付してもらった酒カスを使った甘酒も作って振る舞った。にぎやかな中で、楽しく元気な会話を交わしていると、あっという間にシャワーサービスの時間が経過した。

利用していただいた人たちの感想を推測すると、こんなサービスをするためにわざわざ広島からキャンピングカーに乗って来たことが意外だったというか、感激的な?驚きだったようだった。

私が引き揚げた後の2日間も、同様に多くの方がひっきりなしに来て、いろんな差し入れや楽しい話題でいっぱいだった、と聞いた。これは大変うれしいことで、ぜひともこのシャワーサービスの計画を支援いただいた皆さんに、きちんと報告しないといけないな、と痛感している。

支援金の寄付
今回の私の行動について支援金を数多くの皆さんから頂きました。その支援金は他の募金のような扱いにせず、現地で必要とされる方に少しでも早く届けよう、という趣旨で私の独断で直接手渡させていただきました。 最初の時には亘理災害ボランティアセンターで、困っている皆さんのために迅速活用いただくように、物品と共に支援金を提供しました。 2回目の折は、女川の第一小学校に出島(いずしま)から避難されている責任者の方に直接お渡ししました。この島は女川の町の目先にありますが、津波のときにすべての家と、生計を立てるカキ筏がすべて流されて全滅。まだ島の復旧にはどこからも支援に来てもらえない状況で、島民が毎日潮の時間を見ながら船で島に戻って片付けや復旧作業をしている、ということでした。その皆さんの役に立てていただくため寄付させてもらいました。 いろいろな寄付の仕方はありますが、皆さんの浄財を直接渡すのが一番と思い、それを実行させてもらいました。支援いただいた皆さまに、心からお礼申し上げます。

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10 帰途…山海の自然美が疲れ癒やす 5月4日

 

5月4日の夜、シャワーを利用してもらったお客さんが帰り、私たちもシャワーを浴びた。浴室周りの片付けをあらかた終えると、私は帰途に就くことに。前日までは翌日朝発ちで帰れば良いと思っていたが、よく調べると走行スケジュールが苦しいことがわかったためだ。

石巻市のボランティア事務局は石巻専修大学にあり、D女史から「ボランティア登録して、石巻市役所にボランティア登録証を持っていけば高速料金が免除される(前回の亘理でも同様の扱い)」と聞いた。郊外区域で活動した私たち2人は登録していなかったので、その登録をしたのが午後4時過ぎ。翌日高速料金免除の手続きをすれば確実に半日はつぶれてしまう。それに帰途、京都に立ち寄る予定があったため、高速道はあきらめて一般国道を使うしかなかった。

前回来た亘理までは100キロ近い距離があるが、明朝よりもこの日のうちに亘理のボランティアの人たちがいる駐車場にまで行っておいた方が少し楽になると思い、午後10時ごろ、W氏の見送りを受けて出発した。

来たとき同様、夜道を走り、亘理町のボランティア駐車場に着いたのは午前0時30分ごろ。前回来たときの半分の車両しかなかった。連休が終わるので、やはりそのせいだろう。まだ寒いのでエンジンをかけて暖房を入れなければならないが、エンジン音が寝ている人たちの迷惑にならないように、駐車場の敷地の外に車を移動。いつものように運転席で寝袋に入り、毛布を重ねて眠りについた。

翌朝5時前、駐車場に赤みがかった炎のような日差しを当てながら昇る、爽やかな太陽のお出ましを見て、走り始める。113号線をひたすら走り、蔵王連峰の雪の頂を右手に見て、山形県に。間もなく新潟平野北部にある新発田の海岸沿いの松林にある海岸公園で小休止。日本海の荒波がうねりを伴い海岸の砂浜に規則的に押し寄せる。沿岸の沖には石油の掘削装置が浮かんでいた。日本国内の他の場所ではまず見られない光景だ。

新潟から柏崎に向かう。今回の原発事故以前、柏崎の原発事故が話題になるが、新聞紙上を賑(にぎ)わせた事故があったのはそう昔ではない。車を走らせながら、ふと思った。国道7号線から8号線のルートは、なぜこんなに柏崎の市中をそれて走っているのか。今回の福島の事故を考えると、ひょっとして原発事故が発生した際のことを考えて国道の主要ルートをわざと外したのかな、と思った。それまでずっと海岸ルートを走っていた国道の延伸の仕方が、不自然に感じられたのだ。ただの思い過ごしだろうか。

天気に恵まれた海岸沿いを走ると、この付近では当たり前の少し強い風、空と海を直線で分かつ水平線がまるで絵の世界のよう。痛快にして見事だ。海と空の2つの色だけが目前にある。柏崎の町から内陸の方を見ればアルプスの山々が白雪を抱いてそびえ、新潟からもそれはしっかり見ることができる。この地方ならではの光景は広島ではまず見られない。糸魚川や富山では白山の白い頂の連峰が良く見える。洞門が続く親不知海岸を明るいうちに通過。夕刻の金沢の広大な平野を敦賀に向かって走ると、沈み行く太陽は感動的なシーンであった。この日は、朝は亘理町で鮮やかな朱色の日の出を見て、日没は日本海に沈む朱色の太陽、周りの空を見ることができた。

京都亀山には午後10時半に到着。約束の11時に知人の自宅を訪ねた。ここで実に5時間もあれこれと話して別れたのはよいが、その後の帰路は大阪から2号線に入るまでに11年前のカーナビの古いデータに振り回された。途中、食事や仮眠をしながら、午前4時前に自宅に到着した。神戸から実に7時間もかかっていた。さすがに参った。

無駄足、現地走行、往復走行を含め、2回目の東北行の累計走行距離は2,900キロ。1回目と合わせると走行距離は5,400キロ。平成11年式マツダカペラ1800ワゴン、大変ありがとう。この活動を支えてくれた人々、大きな志の厚意をいただいた人々へ感謝の気持ちが尽きない。

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ご支援いただいた内訳と使途の報告
活動支援・義援金総額   233,000円(30名)
物品支援品 4名
亘理町災害ボランティアセンターに寄付委託しました。
使途内訳(支援寄付金)
義援金として
*** 宮城県亘理町・亘理町災害ボランティアセンター宛  50,000円
*** 宮城県牡鹿郡・出島(イズシマ)赤坂区長       30,000円
活動資金として
***温水シャワー車両燃料費、温水機器使用燃料・部材一部費用 120,000円
(車両燃料・発電機・ポンプ動力ガソリン 620リットル 93,000円  灯油320リットル 32,400円、 シャワー室外・内部材・配管材・高圧ケーブル 一式 65,000円 設備試作・試験調整・運搬車両改造部材調達と改造作業費用実費自己負担延べ40日)
***迫分使用燃料一部費用(2往復分)
33,000円 (使用燃料440リットル 66,000円 通行料16,000円 他12,000円)
<名簿略>
皆さまの心からの支援に感謝申し上げます。
いい国日本のために、自分の歩みから皆のためになる日々を皆で協力し合って進みましょう。人生は一度、いつも生き生きときめいて !! 2011(平成23)年5月30日    迫 義人

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<随想・評論>

 

A 天災より深刻な「原発事故という人災」

 

日本の政治が歯止めなくぐらぐらとし、すべての日本人もへなへなしているときに、天のおとがめとも言えるほど、被災地の方たちには無情な大震災が起きた。過去最大の天災、そしてそれに輪をかける信じられないお粗末な原子力人災。これが本当に日本なのか。原子力という「パンドラの箱」を開けて、これまで核の問題を軽んじてきたツケはあまりにも大きい。放射線被害者の方々への同情が大きくなる一方で、国や東京電力の不誠実さ、内輪もめで日本全体が世界から笑われ者になっている現実が悲しい。

やってはいけないことを強行した挙げ句、犠牲と混乱を伴う今回の事故が起きた。そして、やっとその危険性を理解し、その仕組みを解体するのか、という思いだ。

「事故は絶対におきる」。現場の人ははっきりと知っていたはずで、それを経営者と政治家、御用学者が偽りの広報と、うその数字で原発立地場所の住民に「将来の被害」を暗黙のうちに承知させ、国の交付金でごまかし続けてきた。東京大学を中心にした原発御用学者と政界、産業界、御用消費者組合、マスメディアなどが結託してうそを突き通し、事故後もその姿勢に具体的な変化は示されていない。そうした一連の偽りの構図が証明されたことが、不幸中の幸いかもしれない。

国内の非御用学者、識者、海外のメディアは被災直後「メルトダウンしかありえない」と見て、日本政府や東京電力の発表内容を否定し続けてきた。正確に炉心溶融しかないということを指摘したのだ。それでも日本政府や東電はごまかし続けた。

2カ月たって隠しきれなくなったのだろう、東京電力は初めて事実を認めた。現場で身をていして処置作業をしている人たちの過酷な労働は、経営者や国の指導者にはまったく伝わっていない。国民へ煙幕を張り巡らしているだけのように感じる。

日本全体までもが、全世界から著しく信用を損なったことは、今後の外交にも著しいマイナスを与えるだろうが、政府にはそんな自覚も皆無のようだ。今もって責任の感じられない発表を毎日平気で繰り返している。

今回の原子力人災に対する海外の評価は「国民は一流、政治は三流以下」といわれる。しかし、政治と国民のレベルは一致しているわけだから、残念ながら三流の政治家しか選べない国民であることは、私たち一人ひとりが真剣に反省しなければならない。孫子の世代に、この国を滅亡寸前にして引き渡してはならない。今回の天災がなくても、ここ数年、日本という国のお粗末さに世界中の信頼が大きく損なわれ続けていた状態なのだから。

国民の質は劣化し、要らないことで税金をバラまく政府とバラまきをさせる国民ばかりの二流国。それだけでなく、日本は世界最大の国民の借金国になった。世界から相手にされなくなりつつあるときに起きたこの危機。確かに国難ではあるが、国民次第では社会全体を大きく変革する転機になるのではないか。国民は皆強く内心で「いままでの当たり前はもう通用しない」と感じていることだろう。

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B 自衛隊の力・米軍の即応力

 

被災と同時に自衛艦は全国の各基地から2時間以内に緊急出港し、陸、海、空の救難、輸送、偵察航空機も部隊編成して緊急に被災地に展開した。

被災地には自衛隊がほぼ交代で入り、車両、人員、航空機で機動力をフルに発揮、海上保安庁や警察、消防などの公的な活動組織と協力しながら救助捜索に力を入れた。さらにがれきの片づけや搬出などといった広範な災害復旧、被災者生活支援の連絡、補給、捜索にも大いに努めた。特に被害地や原発事故の写真偵察には自衛隊写真偵察機、米軍の無人偵察機が資料収集に威力を発揮した。

陸海空の各現場で当初の捜索活動や人命救助で持てる力を遺憾なく発揮した様子は、国民の記憶に新しいだろう。原発事故の対応でも、困難な初期対応に大変な努力をしていただいた。遺体捜索、避難所での生活物資の補給、給水活動、臨時仮設の風呂など、自衛隊ならでは貢献だろう。被災当初から直接現場で活躍し、被災者を慰労した活動は高く評価されるべきだ。私も亘理、石巻で自衛隊のそうしたサービスに浴した1人である。

米軍の緊急展開も凄まじく早く、日本近海で演習中の空母やマレーシア、韓国方面にいた強襲揚陸艦も駆けつけた。機材や人員、緊急時のトータルな運用能力、指揮通信や偵察能力の高さを、わが国の自衛隊にも強烈に見せつけた。仙台空港と松島基地の輸送能力は、米軍海兵隊の協力がなければこれほど短期間で機能回復していないだろう。津波被害で主要道路、港湾が全部使えないために、航空輸送の回復が物資輸送の復旧に直結していたからだ。米軍の作戦能力の高さ、自衛隊の実働限界も今回で改めてはっきりした。国際緊急展開に常に備えている国、アメリカとはレベルが違っているのが当然ではあるが。わが国のため懸命に動いてくれた米軍から学ぶべきことは多いと思う。

自衛隊のきめ細かい支援は大変効果的だった。実際の避難所で毎日3回の物資補給、連絡確認などの支援に接し、感謝の気持ちを持っている。石巻では石巻商業高校、石巻専修大学のすぐ近くにある市民運動グラウンドに車両、救助隊の宿泊基地があり、松島基地からのヘリコプターも頻繁に離着陸していた。駐屯した場所は、広大ながれき集積場のすぐそばという厳しい環境にもかかわらず、被災者支援に尽力していた様子に心から深く「ご苦労さま」と感謝し、見守った。

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C 無事だったブルーインパルス

 

今回の震災で一時的に機能全滅したのは、石巻に隣接している航空自衛隊松島基地である。航空自衛隊の実戦教育訓練部隊であり、現役戦闘機部隊に配属される前の最終訓練部隊である。基地は津波で損壊して基地機能を失い、部隊のすべての所属機も流され、損壊したためすべて数飛行不能となった。所属航空機だけで被災損失は1,800億円といわれている。

当然ながら救難航空機としてのヘリコプターも流されて損壊し救難機能を喪失した。パイロットが本来の救援活動に就けない、と悔し泣きをしていたテレビの映像に深く同情した。石巻専修大学付近に移動する前には、基地から航空機の爆音が聞こえてきたので、機能が一部回復して輸送か連絡機が発着し始めたと思った。

石巻専修大に行く前に、買い物と郵便局での所要のため、松島方面に向かった。夜来た道なのだが、昼間走ってみると道は相当被害が大きかった。あちこちで道幅が狭まったり湾曲したりしている。

松島基地に一番近づいた場所には、基地の整備車両、さまざまな特殊車両、隊員のものらしい車両が整然とまとまって駐車している。ちょっと変だな、と思ってよく見ると、すべて海水に冠水して動けない車のようだ。証拠に車両には漂着したゴミがドアの上部までついていた。おそらく基地を整理する過程で、不動車両としてひとまず隅に置かれたのだろう。

そしてふと気づけば、車両の背景に格納庫が見える。なんとブルーインパルスの格納庫であった。ブルーインパルスは日本国内の主要なイベントに必ず参加する自衛隊唯一の曲技飛行チームとして大変名高い。飛行隊のホームベースがここなのである。

2回目の東北行の前にこの方面に来ることがわかったので、ひょっとして津波に流されてしまったのではと心配になり、インターネットで確認すると、チームは天災日当日、九州の博多市で翌日の九州新幹線開通の祝賀飛行に備えて予行飛行をしていた。チームが無事だったのは、不幸中の幸いであった。

この報告を書いている現在、チームは飛行教育隊のある福岡県の航空自衛隊芦屋基地で訓練飛行を開始したという情報がある。早く本格的な活動を再開してほしい。東北の皆さんを元気付け、元気のないこの日本国民に、心地よいフライトを見せてほしいと願うのは、私一人だけではあるまい。できるなら飛行機雲にニコニコの笑顔マークを新しいレパートリーに、なんて思うのは暇人の考えか。

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D 激変する日本と人間の素晴らしさ

 

地球規模の気候変動により、私たちは予測不能な天候を過去十数年の間、経験してきた。今回の天災はその中の一つかもしれない、と私は感じている。

地球上ではさまざまな場所で急激な水資源の枯渇が進んでいる。中国などで今現在起きている広範囲で猛烈な旱魃は、稲作ができない地域を拡大させている。逆に大洪水のニュースが世界各地から届く。こうした旱魃と降雨の極端な頻発は海洋の変化と決して無縁ではないと思う。

台風シーズンにもうすぐ入るが、海水温の変化による台風のルートの変化、進行スピードの低速化は、ここ数年の際立った変化だ。台風の勢力も大きくなっている。気候変動によって全世界的に起こっている生活上の障害は、水資源だけではない。今回の人災による原発事故により、全世界でのエネルギー政策の大転換が必要、不可避となってくる。気候変動への切り札として日本の現政権が、電力生産に占める原子力エネルギーの割合を安易な感覚で、一気に50%にしようとしたことは、世界の流れに全く逆行している。

過去の政権や原子力政策のだまし的な政策を見抜けなかった国民は、改めて何もわかっていなかったという愚かさを知り、そして幻滅した。平和教育と核兵器廃絶と称し、原発政策に何にも異論を挟まなかった広島市や被爆者団体。「何かとてもおかしい」と、普通の広島市民は以前から強く感じていたはず。しかし、平和がつけば何にも疑わない、広島発の能天気な反核平和運動が役に立たなかったことを、今回の原発事故が証明してしまった。

原発事故はたまたま死者が出なかったが、核爆弾が落ちたのと同じ。広島にある平和研究の機関は、全世界の原子力の実情を視察して何を研究していたというのか。

隠された真実がいろいろと出てくるのはこれからだろう。日本の商品に当てはまると思うが、売るまではあらゆる努力はするけれど、売れた後のことをまったく考えない。すなわち、核廃棄物のことをまったく考えていない。

今回の事故ではっきりした各施設の廃棄物の処理費用と長期にわたる有害性、原子炉の廃棄は長期にわたる。さらに今の原子力を今すぐ止めるにしても莫大な費用が長期にかかる。これから先、こうした事実をどうごまかすのだろうか。コストについて数字が出れば、原子力が圧倒的に安いというごまかしは大うそだったということがすぐに分かる。

国と電力会社が都合よくマスコミと国家予算を使い、政策的なうそをついてきた。自民党がそれを作り上げ、民主党がさらにそれを推進加速しようとしていた。

【生活が第一】の民主党が実は【生活破壊・日本破壊が第一】とは皆思っていなかったのでは? 日本が世界の国から信用されなくなり、相手にもされなくなって日本自体が行き詰まりつつある。日本国民の資質の劣化も同様に深刻だ。

気候変動への対応を進めることは、わが国だけでなく全世界の国に共通した目標である。その対応の中身は、食糧とエネルギーの自給。単純なことだ。これを目指してわが国が自然エネルギーに転換し、その技術や手法を世界に広める。自然農法を中心にして食糧生産に全国民が取り組み、その手法と技術を世界に広める。この2つの分野において、各国は国策としてそれぞれの国に適する方法を協力して作り上げ、日本はそうした国々に期待される国になるしか、生きる道は残されていない。これがまさに平和運動なのではないだろうか。口先だけの平和にはもう、うんざりだ。全世界では、争いや戦争が頻発している理由を問うてみたい。

空念仏の平和運動は何も解決しない。行動しなければ平和は来ない。みんな思っているだろうけど言わないので私が代弁しよう。

国はいつも何も遅すぎる。わが国はこれらの課題について解決する能力や技術は既にあるのに、それらの技術普及を政治と政策が阻害している。どのように投資していくかは、民間と政策が一緒に作り上げていかないといけない。政治は長期的な視点を持ち、それを早く実行すべきだろう。政策を待つだけでは、いつまで待っても、何もできないことを今回の事故が証明している。法律でごまかしを貫いているのだから、「待てば死」しかない。民間企業であるソフトバンクは、休耕田での太陽光発電計画を打ち上げ、具体的に動こうとしている。

有効で希望が持てる産業基盤の整備は、政府がいつまでも本気にならないのなら、中国など海外からでも投資してもらって始動するしかない。今は未来に向かって大胆な社会転換をするかってないチャンス。それができなければ、「日本終了」も近いだろう。

否定的なことを書きたくて書いているのではない。希望につながればと思うから書いている。

今回の被災復旧応援の現場で目立っていたのは、若い人たちはもちろん、年配者も地味ながら多数参加していたこと。長期間連続して、あるいは土日は家で、平日は被災地に、と期間を決めて参加する人もいた。大活躍した自衛隊員も若くハキハキした人が大変多かった。若い世代は国内だけでなく、海外の人たちも非常に存在感があった。私自身はこれまでに広島の芸予地震と五日市の土石流災害復旧を手伝ったことはあるが、それも少しだけ。今回のように2回に分けて支援活動をしたのは初めてだった。

ボランティア参加者は全国各地から来た人たち。多くの若い人たちが自分の時間を使い、あるいは自らの意思で長期休暇をとるなどして来ていた。すべて自発的な意志によるもので、何か救われたような気持ちになった。「人の喜ぶ姿がとても大きな喜びなんです」とうれしそうに話す若い男女は、テントに泊まりながら毎日精いっぱい活動していた。ある日は泥だらけになり、ある日は喜びを感じあいながら、日々のそれぞれの場面で体験を重ねていく。これは本当に素晴らしい! たとえ一日でも支援に駆けつける人たちは、世代を問わず他人のための時間を作っているのだ。

今回私たちを支援していただいた方の中にも、時間をやり繰りして見に出掛け「有意義だった」という感想を持つ人もいる。行かないと分からない、風、空気、匂い、人、波動、気象、笑い、感動、共感、感性、時間…。すべての記憶が現地での体験につながっている。以前、中国のホルチン砂漠を訪れて植林したときの感覚に似たものがよみがえってくる。

言いたいことのすべてを書き切ることはできない。他の人と協力して一緒に何かをしたい、という願望を実現させ、現実のボランティア活動がどのようなものなのかを把握するには、何よりも現地に出掛けてみるべきだろう。

お金を使って地元にお金を落としても、あるいは土方仕事をしてもいいから、自分のできることを楽しくやってもらいたい。「やってあげるよりもさせてもらう」という気持ちになればさらにいい。もちろん現地に行かなくても、何ができるかを確認するだけでもいい。日常的に他人への思いやりを忘れず、人の喜ぶことをしてあげる。こうした人が増え、行動に移すようになれば、自らの値打ちを高め、人生も豊かになるはず。

現地にいっていろんな人とすぐに友達になれる不思議さとうれしさ。ささやかな財産がいろんな地域で生まれるのは新鮮な喜び。皆さんの支援の後押しで、現地に行かせていただいたおかげを心から感じている。

皆さんと一緒に、これからも充実した日々を重ねて行きたい、生きたいですね。感謝の気持ちを伝えたくて、つい文章が長くなってしまいました。ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。(了)

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*文章、写真の著作権はすべて迫義人に帰属します。

*迫義人氏は2016年3月12日、広島市内の国道2号線をバイクで走行中、事故で亡くなりました。70歳でした。それまで環境問題を中心に語り合ったり、一緒にいろいろな場所を訪ねたりしました。お預かりしていた原稿を編集し公表することが、迫さんにできるささやかな弔いだと考えました。改めてご冥福をお祈りいたします。2021年3月 吉田光宏