西南戦争の戦跡を巡り現代を考える

明治維新から間もない明治10(1877)年に勃発した西南戦争は、日本が武士の世の中から近代国家へ転換する節目だった。その現場を数年前から訪ねたいと考えていたが、ついに実現した。1月6~10日の日程で九州の関係各県を訪ね、西郷隆盛に率いられた軍と新政府軍の戦いの場に立ってみた。現場を訪ねて歴史を検証するのは、やはりわくわくするのである。

鹿児島城の石垣に残る砲弾、銃弾の跡

鹿児島城の石垣に残る砲弾、銃弾の跡

西南戦争関連戦闘図

西南戦争関連戦闘図:鹿児島県上野原縄文の森:西南戦争関連遺跡調査報告書から https://www.jomon-no-mori.jp/digital202109/

九州を鉄道で右回り

基本はJR九州を使って九州を小倉から右回りに移動した。同行者は友人U氏。日程は次の通り。

1日目 福澤諭吉旧居・福澤記念館(大分県中津市) 上岡泊
2日目 和田越決戦記念碑 西郷隆盛宿陣跡資料館(宮崎県延岡市)⇒尚古集成館(鹿児島市) 鹿児島市泊
3日目 城山公園周辺(照國神社と周辺にある島津斉彬、西郷隆盛などの像、鶴丸城(鹿児島城)跡、御楼門、天璋院篤姫像、私学校跡、薩摩義士碑、西郷隆盛終焉の地など)⇒西郷南洲顕彰館(南洲墓地・南洲神社)⇒熊本へ移動&泊
4日目 熊本市田原坂西南戦争資料館 高瀬大決戦跡 熊本城 ⇒鳥栖へ移動&泊
5日目 秋月城址、朝倉市秋月博物館 ⇒広島へ帰還

『福翁自伝』の記憶蘇る

1日目

福澤諭吉旧居・福澤記念館では、学生時代に読んだ『福翁自伝』の新鮮な感動や咸臨丸艦長だった勝海舟と福澤の関係などいろんな情報が思い出された。初めての場所なのに懐かしい。咸臨丸にはジョン万次郎も乗っていたし、咸臨丸ととともに米船「ポーハタン号」で渡米した小栗忠順は来年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公。昨年小栗ゆかりの横須賀や墓のある高崎市などを訪ねた。咸臨丸の水夫の多くを出した塩飽諸島を訪ねたのも最近。幕末維新の情報が頭の中で渦を巻いている。

中津は「からあげの聖地」。駅のそばの商店街入り口で買った唐揚げ弁当が◎。電車の時間を気にしながら、鶏肉が揚がる5分をじっと待った甲斐があった。

別府では市営の駅前高等温泉で「あつ湯」「ぬる湯」の両方を堪能した。250円。

 

西郷が指揮した和田越決戦

2日目

延岡駅からレンタカーで和田越決戦記念碑へ。カーナビがおバカだったので時間を浪費したが、なんとか到着。碑のある場所から戦場が見渡せた。西郷隆盛宿陣跡資料館(無料)には西郷愛用の遺品やゆかりの品々、戦争資料などが展示されていた。西郷らが軍議をしている場面が人形で再現されていた。

和田越決戦記念碑近くからの展望

和田越決戦記念碑近くからの展望

和田越の決戦に敗れた西郷は、解散布告令を出し薩摩軍を解散した。明治天皇から賜った当時日本で一着しかない陸軍大将の軍服も焼却した。その後、西郷らは可愛岳を越えて鹿児島へたどり着いた。

延岡からは特急で鹿児島市入り。島津家の歴史博物館である尚古集成館(旧集成館機械工場)を訪れた。反射炉跡など貴重な資料を見ることができた。入場券の仕組みがよく分からなかったし、トイレの場所も分かりにくいなど不満が残ったが、目の前に迫る桜島の絶景が救いだった。

反射炉跡

反射炉跡

鹿児島に多数のポイント

3日目

天文館近くの宿を出ると、鹿児島のランドマーク、山形屋の前を通って「歴史と文化の道」を歩き、照國神社の周辺にある島津斉彬、久光、忠義の銅像、続いて西郷隆盛像と対面。鶴丸城(鹿児島城)跡見た。復元された「御楼門」は「日本最大の城門」だそうで、立派な構え。城門そばの石垣に残る砲弾、銃弾の跡が西南戦争の激しさを物語っていた。

さらに大河ドラマ『篤姫』の主人公である天璋院篤姫像、私学校跡、薩摩義士碑、西郷隆盛終焉の地を回った。そこからカゴシマシティビュー(観光スポットを巡るバス)で少し離れた西郷南洲顕彰館へ。近くに南洲墓地、南洲神社がある。

鹿児島中央駅に戻ると、駅前から高見橋たもとの大久保利通銅像を見て、川沿いの「維新ふるさとの道」を歩いた。大久保利通、西郷隆盛・従道の誕生地がある。「維新ふるさと館」に入り、西郷隆盛や大久保などの先人たちの業績、鹿児島の歴史を学んだ。

その後、南洲橋を渡って鹿児島中央駅へ。黒豚は前日に食べたので弁当を買ってJRで川内へ。そこからは肥薩おれんじ鉄道で八代、そして熊本へ。熊本駅に着くと、学生時代に親しんだ桂花ラーメンの晩餐。

激戦地の田原坂は快晴

4日目

当初計画を変更し、熊本駅近くでレンタカーを借りて田原坂、熊本城などを回ることにした。

最初に熊本駅から20㎞ほどの場所にある「熊本市田原坂西南戦争資料館」へ。館の隣に復元した「弾痕の家」があり、戦いの激しさが伝わってくる。内部は体感展示室があり、戦場のジオラマに大砲や銃の音が響いてリアル感たっぷり。軍服や刀などの武器が展示してあるほか、現在も資料を探しているという。

田原坂「一の坂」

田原坂「一の坂」

資料館で地図をいただき周辺を探訪した。田原坂の三番坂から一番坂まで通り抜け、JR木葉駅近くの「高月官軍墓地」へ。官軍兵士の墓980基があり、墓碑には一基ごとに、戦死者の名前や階級、出身地、戦死した日時と場所が記されている。田原坂には砲台跡などポイントがいくつもあるが、時間が限られていたので、その後は「吉次峠戦跡」を訪ねた。標高が高く、薩摩軍と政府軍が激烈な戦闘を繰り広げた周辺の地形がよく分かる。

高月官軍墓地

高月官軍墓地

薩摩軍の「一撃必殺」の剣術、示現流に対抗するため、政府軍は士族出身者が多かった警視隊の中から、剣術に秀でた者を選抜し「抜刀隊」を編成した。田原坂の戦いなどに投入され、効果をあげた。軍歌「抜刀隊」は、抜刀隊の活躍を歌った曲である。現在も「陸軍分列行進曲」としてよく演奏される。

「陸軍分列行進曲(抜刀隊)」
https://www.youtube.com/watch?v=kjxQ8ksdXKg
作詞:外山正一 作曲:シャルル・ルルー 発表:1885(明治18)年

「抜刀隊」歌詞
https://www.kkbox.com/jp/ja/song/KpzCtUEEsGgkppxpYu

 

高瀬大決戦が「関ケ原」

田原坂からさらに福岡方面へ進み、ノリ養殖の盛んな玉名市で「玉名ラーメン」を食した。その後、すぐ近くの高瀬川沿いにある「高瀬大決戦跡」に寄った。

この戦闘は、西南戦争の転換点となった戦いで、西南戦争の「関ケ原」と言われる。敗れた薩摩軍はここから先に進むことができなかった。大決戦跡の説明板のそばに「俵転がし」のある高瀬船着場跡があった。石造りの「俵転がし」が、かつて米の集積地で繁栄ぶりを物語っている。

当時高瀬は熊本藩の米蔵が立ち並ぶ要衝だった。北上する薩摩軍に米を略奪されることを恐れた政府軍は、高瀬御蔵に火を放った。西郷隆盛の末弟西郷小兵衛はこの戦いで命を落とした。

熊本市街に戻ると熊本城へ。地震被害から復興中の城の敷地の中をたっぷり歩いて天守の中の展示を見た。西南戦争に関する展示資料は錦絵や砲弾などがあったが、全体からするとそう多くはなかった。

 

秋月で子孫が語った記憶

最終日

西南戦争の前年にあった秋月の乱の舞台。熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、旧秋月藩の士族ら約400人が起こした反乱はすぐに制圧された。

朝倉市立秋月博物館

朝倉市立秋月博物館

基山から甘木鉄道とバスを乗り継いで朝倉市立秋月博物館へ。観光客は少なく、静かだった。秋月城跡では清掃をしていた男性に話しかけると、親族の中に秋月の乱で亡くなった人がいるという。かつては家が多い城下町だったそうだが、その面影は少ない。秋月博物館では「論語」を買った。これからしっかり勉強しよう。

「子曰く、朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」。

秋月では、吉村昭『最後の仇討』の主人公、臼井六郎の墓を訪ねた。明治新政府が仇討を禁止した後に、両親の仇討を果たした実話。博物館から徒歩で10分ほどの場所にある古心寺に両親と一緒に墓が並んでいた。

また秋月藩藩医緒方春朔(1748-1810)の業績をたたえる碑などがあった。「人痘による種痘法」を1790(寛政2)年に秋月藩内で行った。秋月はわが国の種痘発祥の地とされる。英国人エドワード・ジェンナーが牛痘の種痘を始めた1796年よりも前である。

 

死者は14,000

西南戦争跡を巡る旅は、井沢元彦『逆説の日本史』などやYouTubeの歴史解説動画が事前学習に役立った。大河ドラマになった司馬遼太郎『翔ぶが如く』の書籍の方はこれから。本の情報と自分の目で確かめた情報を突き合わせるのは楽しい。今後、PR支援執筆の中で役立ちそうなヒントもいくつかあった。

それにしても、日本人同士で命のやり取りをし、死者は約13,000〜14,000人。両軍の兵士はともに日本の将来を憂いながら散っていったのだろう。もし阿鼻叫喚の戦場にいたらどうだろうか。突撃を始めた途端、銃弾が頭に命中するのか、あるいは抜刀隊に一撃で切られるのか。絶命までの数秒間、見納めの野山の風景はどんなものだろうか…。