山田方谷への「嫉妬心」を他山の石にすべし

山田方谷の像(高梁市郷土資料館前)
幕末から明治にかけて大きな存在感を示し、「備中の聖人」と敬われたた山田方谷(1805=文化2年~1877=明治10年)。備中松山藩(現岡山県高梁市)に仕えた学者で、藩主板倉勝静(かつきよ)のもとで藩政改革を成功させ、江戸幕府老中となった勝静の政治顧問として幕政にも関与した。没後150年となり、改めて現代に通じる行政改革の先駆者として注目されている。こうした歴史の中の偉業や「生き方」には、「足を引っ張り」「邪魔をする」など反対勢力が常に存在するが、方谷も例外ではない。そんなネガティブな感情には嫉妬心が含まれている。

備中松山城
■標高480mの備中松山城に登る
昨年の「日本の沿岸を歩く」静岡県東部の取材へ向かう途中、岡山県高梁市を訪ねた。備中松山城と山田方谷(ほうこく)記念館が目的地。JR伯備線高梁駅から徒歩で片道1時間かけて松山城(標高約480m)に登った後、再び徒歩で下山して城下町を歩いた。方谷が会頭・学頭を務めた藩校有終館跡、方谷の名言を記した碑などを見て、高梁市郷土資料館隣の記念館にたどり着いた。ちなみに方谷の母親の出生地で晩年を過ごした新見市にも同名の記念館がある。
山田方谷記念館(高梁市)
https://www.city.takahashi.lg.jp/site/yamada-hokoku-museum/
新見市 山田方谷記念館
https://www.city.niimi.okayama.jp/usr/hokoku/hokoku.html
友人に勧められて司馬遼太郎著『峠』を読み、長岡藩家老、河井継之助を知った。北越戦争で新政府軍に対して武装中立を貫こうとした英傑である。いち早くガトリング砲を導入するなど、とにかく型破りな生き方に引き付けられる。方谷は河井継之助の「師匠」として、継之助に非常に大きな影響を与えた。
陽明学者の方谷が行った財政再建は、現代にとっても非常に参考になる。「歳出削減(身を切る改革)」「債務の誠実な処理」「殖産興業」「人材育成」の4本柱は、現代の企業経営や行政改革にも通じる普遍的な原則。備中松山藩の赤字10万両を返済し、さらに10万両を蓄積するという藩政改革を果たし、これによって藩主板倉勝静(かつきよ)の幕政参画の道を開いた。山田方谷記念館では、方谷の業績を「儒学者への道」「備中松山藩の藩政改革」「教育への情熱」の3テーマでわかりやすく展示・紹介していた。
■重役や藩士たちの悪意や憎しみ
さて、本題である「山田方谷に嫉妬した人たち」は、童門冬二著『山田方谷 河井継之助が学んだ藩政改革の師』の中に出てくる。方谷が重用され、藩主の命により藩政改革を断行していくことになると、重役や藩士たちは悪意や憎しみを募らせる。方谷が菜種油作りの農民出身であることをあげつらい、能力がないなどと見下した。身分制度が堅固な封建時代にあっては、江戸末期に見られた多くの有能な人材の台頭があったとしても、そうした逆風は当然だったかもしれない。

藩校有終館跡
童門氏によれば、側用人の辻という人物が藩主板倉勝静について書いた小伝では「平和な時代に生まれれば名君だったろうが、乱世には向かない能力不足のトップリーダーだった」と痛烈なマイナス評価を下し、板倉を支えた方谷の能力についても否定的であるという。
方谷が藩政改革で残した稀有な成功の実績を見れば、辻の言質が的外れであることは明白。しかもその中に憎悪を感じるのである。藩主や方谷を批判したのは辻のルサンチマンだったのか、辻が得たものは何だったのか。同時に板倉や方谷がこうした「逆風」をどのようにこなしたのかが非常に興味がある。
■心に巣食う嫉妬という魔物
嫉妬は「他人と自分を比べること」から生まれる。嫉妬が「自分自身を攻撃する敵である」とか「最大の敵」であると、多くの先人が戒めている。「私たちの最大の敵は、外にいるのではない。私たちの心の中に巣食う『嫉妬』という魔物である」(シェイクスピア)。嫉妬を自分を成長させるためのエネルギーに変え、自分自身の本来の役割や才能に目を向けることが賢明であると先人たちは言い残している。
「言うは易し」で、わが身を振り返ってみても嫉妬心に蝕まれていたことは否定できない。競争社会の中で劣等感と嫉妬心を抱いて生きてきた。そうしたネガティブな感覚が少し薄らいだのは、新聞社を早期退職し、フリーとしての執筆活動やPR支援のコンサルタントが落ち着いてきたころだろうか。同じようなスタイルの比較対象がほとんどいなくなった。人は一人として同じ人格はなく、目指すものも異なるので、他人との比較よりも「ワシの生き方を決めるのはワシじゃ」の境地に行き着いた。
とは言っても、相手が意図的に無関心を装ったり、皮肉をぶつけてきたりすることに嫉妬心を感じることがある。それに反応することがエネルギーと時間の無駄のように思え、そうした雑音は気にしない。むしろ、そういう人たちの健康を祈ってあげたくなるのである(嘘)。
少し脇道に逸れるが、他人に対する嫉妬や敵愾心などについて、精神医学や心理学などの情報を確かめてみた。例えばパーソナリティ心理学では、「自己愛性パーソナリティ障害」なんてものがある。プライドと優越感の維持のために、他者の成功や注目に対して強い嫉妬を抱き、それを認めたくないために相手を過小評価し、見下すことで自分の優位性を保とうとする…。
そのような人物はどこにでもいる。発達障害の一つである「自閉スペクトラム症」(ASD)の「スペクトラム」とは、境界線が明確でなく、様々な要素が連続して変化する「連続体」や「幅広い範囲」を意味している。症状や特性が「異常か正常か」と切り分けられるものではなく、グラデーションのように連続している状態だそうだ。
素人なりに解釈してみると、問題は「程度の差」。だれでもどこか歪んでいるということだろう。知能指数(IQ)が高い人のASDもあるので、この社会、ある意味で「ビョーキ」の人であふれているのではないか。
このあたりの「人の見方」は↓が分かりやすい。
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■人望という能力
これまで調べて感じたのは山田方谷に対する人望の厚さだ。藩政改革では多くの逆風もあったが、生涯を通じて人柄がしのばれる。能力とともにこの人柄が最大の「才能」だったのかもしれない。
河井継之助との関係の中でうかがえる。晩年、私塾「長瀬塾」を開いて人材育成に尽力していた方谷を訪ねてきた継之助は、当初「農民出身の学者」と見下す気持ちもあったが、方谷の「理論だけで終わらせない圧倒的な実務能力」と「私利私欲のない高潔な人格」に触れるうちに、「この人には敵わない」と心から心服したという。
約半年の遊学を終え、長岡へ帰国する朝、方谷は自らの思想の根幹である『王陽明全集』を継之助に譲り渡し、旅の無事を祈った。小舟で高梁川を渡ると、両手をついて何度も土下座(拝礼)を繰り返したという。対岸の方谷たちも継之助の姿が川下に消えるまで見送り続けた。現在も「見返りの榎(えのき)」が残っている。

河井継之助の像(長岡市の河井継之助記念館)
その場所は、JR伯備線の方谷駅近く。この駅は高梁駅から北へ三つ目。駅名は1928(昭和3)年の伯備線開通に際し、この地域の熱心な陳情により、当地ゆかりの偉人である方谷から名前が採用された。日本の鉄道(当時の国鉄)において、人物の姓名を冠した初めての駅。駅舎は開業当初からの木造建築で、国の登録有形文化財に指定されている。
■閑谷学校再興に尽くす
山田方谷の人柄は、閑谷(しずたに)学校(岡山県備前市)復活への尽力でもうかがい知れる。「世界最古の庶民のための公立学校」だった閑谷学校が1870(明治3)年、閉校になり、領地や建物を没収され一度は完全に廃校となったが、3年後に方谷を招聘して「閑谷精舎」として再開した。明治維新後、大久保利通らからの入閣要請された方谷はこれを固辞し、閑谷学校の再興に尽くした。
3年前に閑谷学校を訪ねた時、国宝の講堂が実際の研修が行われていた。「学ぶ」ことの純粋な姿、荘厳な雰囲気を感じた。この時にはまだ方谷のことは知らなかったが…。
特別史跡 旧閑谷学校 公式サイト
https://shizutani.jp/
■河井継之助の墓前祭
長岡市の河井継之助記念館は既に2回訪れ、近くにある墓にも参った。継之助は北越戦争で新政府軍に敗れ、左膝に銃弾を受けて負傷。会津を目指す途中の只見の塩沢村で亡くなった。村人が拾い残した細骨を集めた墓が福島県只見町の医王寺にある。福島県只見町の河井継之助記念館には、息を引き取った矢澤家の建物も移築・保存されている。毎年8月16日、医王寺で墓前祭が営まれている。

ガトリング砲(模型)
河井継之助記念館(福島県只見町)
https://tadamikousya.sakura.ne.jp/kawai/info_access/
越後長岡 河井継之助記念館
https://tsuginosuke.net/
歴史なんて後世に都合よくまとめられたものかもしれないが、埋もれた事実を想像してビジネスや生き方の参考にできれば楽しいじゃないか。河井継之助墓前祭に参加してみようかな。
(了)

